◇ 擬洋風建築(ぎようふうけんちく)とは

  擬洋風建築は、「洋風に擬(なぞら)えた建物」という意味で、一般に『明治初期に大工が西洋の建築に似せて建てた建築物(『大辞林』より)』のことをいいます。

  安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカなどの諸国と修好通商条約を締結して開国に踏み切り、神奈川 (横)、長崎、兵庫(神戸)などの開港場に外国人居留地が設けられて本格的な西洋建築が建てられていきました。こうし居留地に現れた西洋館は、日本人の好奇心をかきたてるものでした。

 とくに慶応4年(1868年)に江戸の築地に清水喜助が建てた「外国人旅館(築地ホテル館などともいわれる)」や三井組の建物は人々に大きな衝撃を与え、錦絵を通して広く知られていきました。

 日本各地の棟梁や大工が地元の要請を受けて見学に訪れ、それこそ見よう見まねで学び持ち帰り、擬洋風建築を建てました。また、並行して工部省の建築技術者(多くは大工出身)が明治初期に大量に必要とされた官庁舎等を和洋折衷の手法で建設していきました。

 こうした擬洋風建築は明治10年頃をピークに明治20年頃には建てられなくなります。明治の文明開化の波と重なります。

 明治12年(1879年)に工部大学校の第1回卒業式が行われ、本格的な高等教育を受けた建築家(辰野金吾、片山東熊など)が世に出て行きました。その後は彼らが明治の多くの建築の設計、建設を担っていきます。

 棟梁や大工、職人が建築の世界において主役を演じることができた時代は終わったといえます。新しい建築家の活躍に合わせて擬洋風建築は終焉を迎えます。


◇ 擬洋風建築が誕生した時代背景

 擬洋風建築は、江戸時代の棟梁・大工(とくに堂宮大工)が優れた技術をもっていたことや明治になって江戸時代の封建的な家作規制が撤廃されたこと、西洋文化が一気に導入され文明開化の華として人々の応援が得られたことなどにより、生まれることができたといわれます。 

 明治の新しい時代に入り文明開化のもと、各地で学校や役所、病院、警察などの施設の洋風化と大量建設が求められましたが、本格的な建築家の登場は明治12年以降であり、それまでは大工がその大役を担わざるをえない状況がありました。


◇ 擬洋風建築の評価

 擬洋風建築は明治の建設当時から「擬洋風」と言われてきたわけではありません。昭和になって一部の建築史研究者が、こうした一群の建築物を擬洋風建築と呼ぶようになり、それが定着していったものです。

 本格的な建築教育を受けた建築家(東京駅を設計した辰野金吾など)が設計した建物は、擬洋風建築からは除かれています。建築界では長い間、擬洋風建築は「西洋建築の正しい知識を持たない職人によって建てられた、奇妙な建築、寄せ集め的な建物」という低い扱いを一部では受けていて、一段下のものと見られていました。    

 太平洋戦争後、明治時代の建築の再評価が進められていくにつれて、幕末から明治初期の日本の世相と雰囲気を今に伝える貴重な建築物として、次第に評価されるようになりました。コンクリートと鉄の現代建築には見られないその印象的なデザインと雰囲気は、現代においてはむしろ斬新でお洒落な一面もある独特のものといえます。

 明治初期の棟梁や職人たちの独創的な表現力、意図的な和洋折衷表現はもっと高い評価がされるべきだと思われます。

 近年は「擬洋風」の語感が持つニセモノとしてのニュアンスを避けて「明治初期洋風建築」に置き換える建築専門家や、和風と洋風が混在している建築物の中でもやむを得ず混在してしまったのではなく、積極的な意図のもとに表現された建築物をいう際には、擬洋風ではなく「和洋折衷建築」と呼ぶのが適切とする建築史家もいます。

  擬洋風建築の多くは取り壊されたり、戦災や災害などで失われてしまっていますが、今も数は少ないながらも各地に現存しており、現在は国の重要文化財や地方自治体の有形文化財に指定されているものも多くなっています。 


◇ 擬洋風建築としての旧九鬼家住宅

 明治3年に代々家老職の九鬼家の当主となった九鬼隆範は、同年に鉄道局に入り新橋・横浜間や大阪・神戸間の鉄道建設に測量技師として携わり、横浜や東京、神戸の居留地に幾度も訪れたものと思われます。

 横浜居留地(1859年開港)は当初から和洋が混在した建築物が数多く見られたようです。(絵図などから)

 一方、神戸居留地は開港が遅かったこともあって(1868年開港)、当初から外国人建築家による洋館が建てられており、和洋折衷の建築物はほとんどなかったと」いわれています。

 東京の築地居留地に慶応4年(1868年)に建てられた「外国人旅館(築地ホテル館)」は明治5年(1872年)に大火で焼失しています。

 九鬼隆範は自ら旧九鬼家住宅の立面図を描くにあたって、横浜か神戸のどちらの居留地の建物をイメージしていたのでしょうか。また、新橋・横浜間の鉄道開設(明治5年開業)に携わった隆範は外国人旅館(築地ホテル館)を見た可能性もあり、その強烈な和洋折衷建築が少なからず影響を与えたのでしょうか。

 関連する資料が残されていないため実際のところは想像するしかないのですが、隆範が技師として明治初期の鉄道建設に関わったことが旧九鬼家住宅の調和のとれた和洋折衷意匠を生む機会を提供したことはほぼ間違いないものと思われます。

 長崎に現存する「グラバー邸」は文久3年(1863年)にイギリス人貿易商グラバーの指示により日本人大工が建てたもの(木造平屋建て、桟瓦葺き)で、日本における最初の洋風住宅です。

 グラバーが自ら簡単な間取図程度の設計図と大まかな寸法、室内の仕上げなどを指定して、それに基づいて地元の日本人棟梁が建てたものとされています。仕上げの仕様を守ってくれればその下地や構造の納まりは大工に任せるという契約だったといわれています。

 旧九鬼家住宅における当主であり建築主でもあった九鬼隆範と施工者である三田の大工棟梁(名は不明)との関係に似ていると思いませんか。    



 建築史家で建築家でもある藤森照信氏が「擬洋風建築」についてその著書『近代日本の洋風建築〈開化篇〉』の中で、擬洋風建築を批判する建築史家や建築家に対して、彼らがいう「不協和音」であったからとて、それは当然であって、それが不協和音であることを指弾するよりも、にもかかわらず、民のレベルにおいてすら、二つ(和洋)の文明の接触の音を響かし得る主体性(大工)が存在したことを評価すべきなのである、と述べられてます。
 そして、擬洋風建築を響かし得た日本の大工の主体性は、おそらく「職人の世紀」江戸時代が準備してくれたものである、との指摘をされ、一方で、擬洋風建築の表現したものは、こと志と異なり、民家の逆像に過ぎなかった、とおそらく言えよう、と結んでおられます。
 言い得て妙、このことを念頭に、今後も旧九鬼家住宅について調査研究をしていきたいと考えています。